北近畿滞在録1

5月20日月曜日天気曇り、北近畿滞在初日。

4年ぶりに北近畿の郷里に帰省です。祖父のいない郷里。(祖父は2017年に逝去した)
今は70代の両親と90代の祖母が暮らしています。

私は南近畿の自宅で2年前の2017年に
障害福祉サービスでヘルパーの派遣を得てから奇跡的に意識が回復。

その後も筋肉減少と全身のけん怠感にに悩まされながらも今回4年ぶりに
帰省できるほど外出レベルが向上しました。

父から
正午過ぎに自宅を出発した」と携帯メールを送信。(ちなみに午前中は訪問鍼灸と訪問看護を受けていました)

最寄の駅までタクシーで向かいました。天気は曇りで雨が降りそうでした。

久々の駅でした。列車を待つ時に並ぶ人達を見て驚いたのは、
皆うつむいてスマホを操作していることでした。

右から左まで20メートル近く後ろから見渡すとスマホを操作する人たち。
この光景に異常を感じました。

在来線に乗車して梅田駅に到着。

ここでも驚いたのは案内の標識がハングルや中国語ばかり。

一年ぶりの大阪というのもありましたが、

この光景にも違和感を感じました。

駅の乗り換え、JR大阪駅に向かいたかったのですがよくわからず、駅構内をうろつくはめになりました。

衰弱した筋肉ではとても辛かったですが、そこはまだ40代、気力で乗り切りました。

間違ってJR北新地駅に行きかけましたが、思いとどまってJR大阪駅の案内を冷静に探しました。

幸い大きな英語の標識があり、
それをたどってJR大阪駅に到着。
大阪駅で仏壇に供える和菓子を購入し、手土産にしました。

「クレジットカードで切符を購入」

ところがここから先、切符の買い方がわかりませんでした。

国内旅行保険付帯のAmazonゴールドマスターカードを使おうとしたのですが、
クレジットカードを入れる販売機がわかりません。

駅員に「特急券をクレジットカードで買いたいがどこで買えばいいですか?」と質問。

男の駅員に邪険な顔をされ不快だったが、きれいな女性駅員が
「みどりの販売店ですよ。ここを少しまっすぐ行って左に向かってください」

と親切に案内されました。こういう時の女性の機転は素晴らしいですね。

みどりの販売店はすぐに見つかり、北近畿の地方都市の駅までの切符を購入できました。

「北近畿 こうのとり」

13時11分発の「こうのとり11号」の切符を購入る。

弱弱しい足の筋肉に重力の負担を感じながらも乗り場に移動しました。

自販機で水を買い列車が来るのを待ちました。

久しぶりの常人の感覚と薄くなった筋肉の違和感が入り交じり何とも言えない感覚をただ忍従するのみでした。

「父に携帯メール」

時間が少しあったので父に携帯メールで「現在大阪駅にいて特急こうののとり11号にのります。

14:42分に到着します」と連絡しました。

メールを打っている間に、特急こうのとり11号が着衣が到着。

指定席の窓際の席に座ろうとすると、
大勢の外国人が入ってきてここでも違和感を感じました。

あまり気にせず指定席に座り荷物の整理をしていると父から返信。

「時間に軽自動車で迎えに行く」という内容でした。

大阪から2時間半の行程。

列車が大阪から北近畿に入るにつれ山の緑が映え、渓谷が見えました。

思わずデジカメとムービーで撮影。外国人はスマホで動画を撮影していました。

4年前に同じ列車に乗っていました。当時はゲッソリやつれ、精神的にも普通ではありませんでした。

今年は4年前と違って今年は気力も体力も回復しているのを実感しました。

ただ筋肉クッションの無さと食欲の無さだけが相変わらずの悩みで、これは今も慢性化しています。

4年前の2015年に「もう一人列車に乗って帰ることはできない」と思っていたので今年の
この進歩にうれしい気持ちになりました。

「父との4年ぶりの再会」

14時42分。北近畿の地方都市の駅に到着。すぐに父の姿を発見。4年ぶりに見る生の父の姿である。

すぐに軽自動車に案内され乗車。久々の父とのドライブである。この4年間、
何事も無かったように世間話に花が咲きました。

これまでの父との確執がウソのようでした。

快く迎えてくれてほっとしました。

ただ自分は自分のことを話しすぎる癖があるので、
「傾聴」を心がけ父の話を聞くように留意しました。

4年ぶりの郷里

15不30分 郷里の実家に到着。4年ぶりの光景。山や空は何も変わっていません。
ただ歳月が流れを感じました。

そして中には白髪の増えた母の姿。母とは2017年の秋以降2年半ぶりの再会でした。

お互いの無事を喜びました。

これまでの電話上での険悪な雰囲気はまったくありませんでした。
これを不思議に思ったくらいです。

「お詫び」

帰宅後すぐに「これこまでのお詫びです。すみません」と母に和菓子の箱を手渡しました。

これに感激してくれた母。そこに父が来て和菓子持参の善意を母とともに受け止めてくれました。

実はこの和菓子の手土産、ある方からの助言です。

こうした礼儀をまったく知りませんでした。帰省前に親切に零語を教えていただいたのです。

じつは和菓子もその人に教えてもらいました。

こうして教えてもらった和菓子の手土産で誠意を見せ、
亡き祖父の仏壇に和菓子を供え合掌。

仏壇の前で遺影になった祖父の姿をみて涙が出ました。そしてずっと祖父の遺影に語りかけました。

親不孝のお詫びの言葉を述べました。

これでようやく祖父逝去から2年の間の罪の意識が軽減できました。

「近距離をも遠くするベンゾ薬害」

自宅から特急を使えば2時間半で帰れる距離。

そこにも帰ることができなかったベンゾ離脱と後遺症。

そこから救ってくれたヘルパー支援に感謝の念に耐えませんでした。

夕方4時、まだ存命の90代の祖母がデイ・サービスから帰宅。祖母はもう自分の足では歩けません。
車椅子で移動し、電動式のベッドに横になっていました。もう寝たきりの祖母になっていたのです。

祖母とも4年ぶりの再会です。「生きて会えてよかった」とこの世の運命のはからいに感謝しました。

しかし、4年前祖母と一緒に座っていた祖父はいません。
いないのはわかっていますが、祖父が座っていた場所に祖父の存在を感じ、一人亡き祖父に語りかけました。

5月20日。帰省当日は、
両親、祖母との4年ぶりの再会の日。何のトラブルも喧嘩もなし。
2015年以前の平和だったころの家族の姿に一時的に戻りました。

5月の気候もよく、今回の帰省は大正解で大成功だと満足感に浸ることができました。

この4年間、病気と障害、そして父からの遠隔DVによって遠い存在だった郷里。
そして両親と祖母の存在が元気なころのように戻りました。

「再開を果たしたものの肉体は皆衰弱」

しかし皆年をとり、祖母は寝たきり。糞尿の始末をしなければならない要介護です。

そして私は意と筋肉が衰弱しました。
そして精神の障害者になってしまったのです。

今回の5月の再開と爽やかな風と日差しは永遠ではありません。いつか皆と分かれます。

今回の際かいもつかの間の平和な時間として記憶に残るのです。

老齢と障害が私の家族を襲っています。お金ももうかつてのようにはない。

ただ自分の再起で家を盛り返す決意だけが湧き上がりました。

朽ちた体と中高年で先は見えていますが、やるだけのことをやるしかありません。

悔いの多い人生。今は泣きごとばかり。
祖父の菩提を弔いながらの再起の誓いです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

(本稿2019年5月21日(火)午後5時過ぎ、実家の机にて執筆
2019年5月30日 加筆編集)

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性 2015年(40代の前半)に過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 一人暮らしなので自炊。食事の改善をはかる 現在はご飯とお味噌汁の一汁一菜の一日に食生活 障害年金と家族の支援を受けて生活しています。 先の不安を感じながらも 節約と療養に明け暮れる生活を送っています 体力の回復で何とかなると楽観 気楽にいきましょう