「ベンゾ離脱中の孤独の怖さ」
2017年~2019年2月のベンゾ離脱の強かった頃、
ヘルパーYさんに助けられました。
認知症寸前のところから意識が回復しました。
こうしたことを経験し自分一人では生きられないことを痛感しています。
特に向精神薬がらみの場合、一人、孤独はとても危険です。
まず家事ができない。簡単な家事でも手足が自由に動かなくなります。
料理をする気力がなくなり栄養が偏ります。
人が家に入るとで家の中の空気は甦ります。意識が回復し、早い段階で家事ができるようになります。
これは未知の力です。筋肉萎縮は進行しているので脳神経になんらかの異常があるにも関わらず、
人との会話、触れあいで「気」の力、本当の意味での気力が出るのです。
こうして介護士のヘルプを受けていると、ベンゾでやられた気力が回復し、筋肉が弱い中でも
一人家事ができるようになります。もちろん、現代の電化製品、インフラが整備されているといった生活様式、
物質基盤が前提となります。
向精神薬の禁断(離脱)症状、後遺症が無くても自分ひとりで生きようというのは傲慢な思い上がった考え
こうしたベンゾ離脱での重度抑うつ、セルフネグレクトんびよる瀕死の状況から回復した経験から言えるのは、
人間は一人では生きていけないということです。
孤独は時に必要ですが、人の助けが陰に陽にあり自分の生活が成り立つのです。
甘えと依存かもしれませんが、
人とのつながりを重視したい。今の私は選択肢が社会福祉しかないので、
福祉を通して人とのつながりを維持していくことの重要性を再確認しています。
本当に怖い一人
精神薬さえのまなければ、一人でも過ごせそうで、実際一人で過ごしておられる方もいます。
また孤独な時間は瞑想的な時間であり自分の心の成長に欠かせまません。
しかしそれはやはりある程度の社会的つながり、居宅内での孤独から解放されていることが前提です。
私は重度のベンゾ禁断(離脱)症状から、一人暮らしの危険性を認識しました。
一番危ない頃は上述の通りヘルパーのYさんに助けられました。
「もうヘルパーの家事支援は不要だよ」というオゴリさえでてきます。
しかし私はここであえて言いたい。ベンゾ系向精神薬の禁断(離脱)症状がなくとも
人間は孤独を回避する工夫をすべきだということを。
わずらわしい人間関係、パワハラなどで人間関係を遠ざけることは当然ですが、
一人では人間は生活できません。いずれ心身の変調をきたします。そういう動物なのです。
なので私は福祉という特殊な制度を利用して孤独を解消する必要を感じています。
本当は伴侶がいて、子供がいてもいい年齢なのですが、そういった関係を築くことができなかった、
「自分には無縁だ」と心のどこかで思い込んで40代になりました。
いわゆる社会的落伍者です。自分の間違った人生観やベンゾ服用で社会的に孤立してしまい、
もうどうづることもできない年齢と肉体条件、経済状態にあります。
素直に社会福祉を選択する道で自分をより高めようと決意しました。
資本主義社会ですからどこまでいっても利害関係なのはわかっています。また介護福祉業界にはクセの強い人達、
つまりあまり社会適応のできない人達が集まる業界です。
行政の説く社会福祉の理念は立派でも、現場は問題が多いです。
福祉従業者の待遇の低さ、過労といったことも原因ですが、それでもそうした限られた人材の中からでも
マンパワーを引き出していくことが、社会的弱者には必要なことなのです。
リスクは大きいです。ストレスもあります。しかし人間は孤独なだけでは生きていけない。特に向精神薬がからむと
絶対人の助けが必要になります。
同じことの繰り返しになりますが、ベンゾ離脱による重度の抑うつ、セルフネグレクトによる汚部屋化。
もう経験したくありません。不審死の原因は向精神薬による中毒死とされています。
その通りだと思います。
こうした薬物がらみの中毒死、孤独死に対する予防的措置ということも含めて福祉を使った人間の支え合いを実現したいのです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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