筋萎縮の現実の辛さ

毎日寝床を中心に自宅で過ごしていると罪悪感に悩まされます。
「世の中の人は働いているか遊んでいる 自分はそのどちらもできまい、制限されている。」

筋肉がゲッソリと落ち腹だけ出たみっともない体でTシャツ姿になると
みじめさが増します。なんとこのブザマな恰好で女性ヘルパー、看護師の訪問を受けているのですから、

異常です。何もかもが異常。工夫すれば身なりは整いますが、この先またサイズが変わるかもしれない
自分の体に恐怖と不安を覚えるのです。

「筋委縮」に間違いありません。この数か月でまた萎縮が進行しました。

レキソタンの再服用にずっとこだわってきたのもこのためです。

意識と思考はどういうわけか落ち着いています。

本来ならパニックになっていてもいいものをヘルパーさんのお蔭か平穏を保つことができています。

自宅での罪悪感もヘルパーさんや看護師さんのお蔭で気がまぎえれているのでしょう。

しかし一人になると孤立感と焦燥感に悩まされます。

筋萎縮と減り続ける貯金。家族らも見放されまるで悪い夢を見ているようですが、これが現実。

全てを受け入れてくれる福祉関係者の存在がなければ確実に病棟行きでした。

人間関係は複雑でいろいろありますが、やはり福祉のおかげで助かっているのです。

人間少し気力が出ると傲慢になる。苦しい中も傲慢になりがりな自分を制することがあります。

これくらいの自制心があれば、クスリに走ることもなかったでしょう。

しかし今はそのレキソタンという薬に頼らざるを得ないのです。

悩みが尽きかねます。毎日同じことの繰り返しです。

本人はわかっているのです。しかしこれが病気なのです。障害といってもいいでしょう。

本質的な自分は何も変わっていない。ただ時代が移ろいで行くのを感じるのです。

自分の体が衰退していくのと同時にです。40代でこのような衰亡を一気に受けるのはあまりにも
残酷な運命だと悲観することもしばし。

思いは宗教的な救いに向かいつつもどこかで冷徹に資本主義社会を考察する自分もいるのです。

もし生かされたらもう少し自分を見つめなおしてやり直したいのです。

まだ自分で歩けます。キーボードも打てます。最低限の家事や事務はできるのでどこまで萎縮した筋肉が
回復するかです。
手足肩胸、臀部 ノド あらゆる体の部位や器官が衰亡しているのを感じます。

ただ意識はよりはっきりとしています。

肉体はボロボロでも(ヘルパーさんも認めるところです)知性や意識が昨年よりずっと改善されている。

福祉を導入したおかげです。このペースで福祉を受け続ければ肉体の回復につながる「何か」をつかめるかもしれないと

期待しているのです。

暑い夏ですが自宅で閑居する自分とさまざまな苦悩と対処せざるを得ません。

筋萎縮は他人事だと思い込んでいましたが本当にあるのです。残酷な現実です。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性 2015年(40代の前半)に過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 一人暮らしなので自炊。食事の改善をはかる 現在はご飯とお味噌汁の一汁一菜の一日に食生活 障害年金と家族の支援を受けて生活しています。 先の不安を感じながらも 節約と療養に明け暮れる生活を送っています 体力の回復で何とかなると楽観 気楽にいきましょう