本日もレキソタン休薬しています。のむかのまないか?」断薬、休薬、服薬、
いろいろな言葉で正当化して薬の調整をしています。
薬をぬくとやはり内臓のチクチク感と食欲の急激な低下があります。
ここで温浴することで痛みを少しばかりやわらげる習慣をつけました。
ベンゾジアゼピンは農薬と同じ神経毒ですから、服用過程で臓器に損傷がもたらされていると
おもいます。
もしくは脳神経の誤作動、神経伝達が不自然になっているものと思われます。
早めに一気断薬することができる時期があったにも関わらず、薬の怖さを知らず尚且つ
強力な依存で長期漫然と服用し、人生が大幅に狂いました。
被害意識はなるべく持たないようにしています。これも時代の犠牲である」と一種の必然性で
自らを客観視し、残された人生をいかに有意義に過ごすかに考えの焦点を当てています。
しかしそれでも体の痛みというのは辛いもので、何かにつけて無力感と失意がつきまといます。
「この時期を乗り切れば」と毎日のように言い聞かせながら、断薬、休薬を継続するのですが、
1か月に一度くらいの割合で薬を服用してしまいます。
まさに麻薬です。
精神科医や製薬会社の言っていることは嘘っぱちで単なる金儲け主義のために患者は実験台、マルタに
されているのです。
向精神薬の依存性を知りながらの所業ですから、許せない義憤を感じること無きにしもあらずです。
「病は気から」
福祉ヘルパーさんの訪問を受けるようになって、元気をもらっています。
非科学的ですが、「病は気から」という言葉が当てはまります。
翻って精神薬をのむ前の原疾患(肩こりや不眠)は温泉に行くか、簡単な民間療法で緩和されたと思います。
極端な表現をすれば、精神薬をのむくらいなら少し怪しい加持祈祷のほうが健全です。
それほど精神薬は服用中も減薬中も、断薬後も破壊的作用をもたらし、健康、人間関係、経済、時間、
あらゆるものを奪い去り、体を破壊します。
食事療法などを取りながら、気合と根性といった精神力が向精神薬を抜くうえで重要になります。
「レキソタンは抜きやすいというけれど」
一般的にレキソタンは抜きやすい部類のベンゾジアゼピンです。
しかし私のように長期慢性に服用したものにとってその後遺症と遷延性離脱は強烈な
苦痛をもたらし、既に3年の時間が流れています。
断薬に6か月成功しても、また再服用というサイクルでこの3年間を過ごしてきました。
薬の飲むのも、抜く時もおsれぞれ正当化する自分がいます。
もしくはベンゾジアゼピンのせいではなく単なるストレスや栄養失調と結論付ける時もあります。
苦痛から解放されたいために「迷い」
が生じ、考えが二転三転し、その心中も不穏になること然りです。
「抜け道は?」
向精神薬を完全に抜き去るための、何か「抜け道」はないものでしょうか?
答えを言うと「ありません」向精神薬は必ず禁断症状と後遺症がつきまといます。
そうでない人もごくまれにいますが、それは脳のホルモン構造が人によって差があるからです。
それでも何か抜け道はないか?考えてしまいます。
「牡蠣」を毎日5個以上食べるようにしています。
牡蠣は栄養の宝庫であると同時にベンゾ離脱に十分耐えられる体を作り上げます。
本来滋養強壮に用いられる食品で有名ですが、向精神薬ユーザーは意外とこういう栄養療法を知りません。
減断薬のきそは やはり食事で、食品添加物の少ないもの、砂糖はやめるようにします。
牡蠣を中心とした魚介類やニンニク、ニラ、玉ねぎといった根野菜を食べるようにします。
ノドから胃にかけての痛みが激しい時は無理に食べず、簡単な断食をする感覚で胃腸を休めます。
食事の質と量に最新の注意を払いながら、精神薬をぬくための体力づくりを食事から行うことが
基礎になります。
「日中の温浴」
ベンゾで内臓が弱くなると、体が冷えるので、朝昼を問わず入浴シャワーで体を温めるようにします。
発汗すればベンゾ毒の解毒作用にもなるので、温浴療法も栄養療法とあわせて行います。
こうした積み重ねでベンゾジアゼピンという神経毒を解毒排毒し、重要な栄養を体内に摂り入れるべく
食事に配慮します。
辛い日々が続き、人生の時間を無駄にしている虚無感にとらわれますが、
自らを深く内省し薬物に手を出してしまった愚かしさとこのような麻薬まがいの薬を野放しにしている社会への
批判精神をはたらかせておきます。
このように向精神薬を抜くことは一種の修行であり、あまりの辛さから、また服薬するという
人間の弱さも思い知らされるのです。
失った時間は返ってきません。何度精神的に納得し前進したかのように見えても
「弱い自分」から逃れることはできません。
向精神薬服用中にニセの強さで虚勢をはっていたぶん、減断薬時の弱さと虚無感にとらわれ続けます。
しかしそこで逃げて薬に依存しないようにすることが大切なのです。
弱い自分、痛みを感じる自分を受け止め、できることから前進するしかないのです。
一種の諦念、悟りの境地に近い感覚も必要です。
食べ物、自然、人間そして社会、あらゆる分野についての根本的な考えさせられます。
ある種の宗教哲学が向精神薬を抜くうえで大切になってくるのです。
これを精神的成長とみてもいいのですが、体の自然環境を破壊した自らの愚かさも
反省しなければ、真の意味での断薬とは程遠いものになります。
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