北近畿滞在録5  祖父の墓参り

祖父の墓参り

5月23日
滞在4日目の昼過ぎ 晴天。5月23日の午後2時ごろ、母と二人、亡き祖父の墓参りに出かけました。
仏壇での慰霊はすんだものの、やはり祖父の眠る墓にいかないと気分が優れずにいました。

北近畿の5月は、朝晩は冷え込むものの日中は真夏並みの暑さです。

そんな暑さでも、私は筋肉減少と皮膚の脆弱でそれほど暑さを感じない。汗もほとんどかきませんでした。

午前中にレキソタン5㎎の服用は済ませており、心理的にはどこか安定していました。

墓場までの距離は約1km。そこまでの道を母と4年ぶりに歩きました。

母は90代の祖母の介護疲れからアル中とヒステリーが少し入っており、言語が支離滅裂なときがあります。
それでも母は自然の草花や青空をみるにつれ少しずつ落ち着きを取り戻していました。

自分にとって北近畿の郷里の田舎道を歩くのは4年ぶり。以前歩いた2015年は原因不明の痩せと激しい胃痛がありました。

ベンゾの大幅減薬を始めた時期です。そして事業を休止し、父から私刑的精神的いじめが始まったころです。

それでも当時の私は、ベンゾ減薬を成功させることで違う人生を歩めると希望を持っていました。

そういう希望を持つ一方脳の片隅に「これが郷里との別れ、祖父母とも最後かもしれない」

という「別れ」を痛烈に感じた記憶があります。そして時代の移り変わりが切実に私の心に語りかけてきたのです。

時代の移ろいの予感があたったのでしょうか・・?

2年後の2017年に祖父が逝去、享年95歳でした。

そして私は南近畿の自宅で一人ベンゾ減薬をはじめ地獄の禁断(離脱)
症状と謎の筋萎縮といった後遺症で
症状を悪化させました。

2015年の予感はほぼ的中したのです。減薬によりベンゾに拘束された脳の機能が解き放たれたのです。

そしてその減薬前の2015年に北近畿で
一種の予知能力が働いていたと思います。

今年2019年5月。そうした4年前からのさらなる歳月の流れを感じました。

そして移ろい行く時代と家庭環境、自らの脳の状態に
自らの不徳と人生観の過ちを猛省せざるを得ませんでした。

祖父の眠る墓場に到着し、線香を供え、墓石に水をかけ祖父に語りかけ、
これまでの不徳と不覚、人生観の過ちを詫びました。

亡くなった人は戻ってきません。唯物論者からみれば死後の世界など存在しない」と言われるでしょう。

(余談 )本来の唯物論(経済社会分野での)の意味は「経済土台
、物質土台の上に政治、宗教、芸術、学問に携わることができる」といった意味で、
当たり前といえば当たり前の話なんですが、心や精神の大切さを忘れた俗物主義が横行している現代社会を考えると、
いわゆる唯物論という考えは無視していいでしょう。
「現実を見つめること」でいいのです。それには己の内面を見つめるという日本古来の精神修養が
適しているのです)

私は長い闘病生活と障害生活の中で心霊主義的感性に目覚めました。

「死後の世界は存在する、死者も4次元の世界で生きている」と信じています。

そして何より今回の北近畿への帰郷を導いてくれたのは亡き祖父の導きだと信じています。

祖父の残した財産、障害年金で2015年から4年間、父からの遠隔DVに経済的にも耐えられました。

そして2019年。和解が実現しました。経済的な土台でこれらのことがな
されたのである意味唯物論が正解といえます。

しかし何かに導かれた福祉と障害年金の受給・・不可知な何かを感じています。

もっと根源を辿れば、計算どおりに行かない自らの運命、つまりベンゾを飲んだ不運というのは、
因果律で計ることはできません。やはり心からすべてが発するのです。

「発心」という言葉からあるように物事への動機には心を整えなければなりません。

お金や物質の力は確かに有用で必要なものです。しかしそれは心に裏打ちされたものでなければ
移ろいやすくはかないものになるのです。

見栄や虚栄は、自分の時間を下らない競争に費やしてしまい、
最愛の祖父との晩年を過ごすという人間らしい時間を忘れる大きな要因となっていたことに今さら気づかされ後悔するのです。

お金は最愛の人。私の場合は、祖父や家族との時間を有意義に過ごすための手段に過ぎません。

今回の墓参りで家族との時間を考えさせられました。

自分には伴侶や子供はいません。年老いた両親と祖母だけが身近な家族です。

今回、墓参りに同行してくれた母もいつか死別する。そのときに「自分は母を送ることができるのか?

そして自分はこの墓に入れるのだろうか?」と不謹慎ながらも自らのひ弱い現実を考えさせられました。

それにしても2015年から本格的にはじめた
ベンゾ禁断(離脱)のもっとも苦しい時期を何とか克服し、
今回の墓参りのための北近畿への帰郷の目的は達成できました。

母も喜んでいました。精神や心というものを大切にする生き方をともに共有できました。

そして同時に時間とお金の使い方を上手に、真に生きたものにするためには、
日々の心がけ、何らかの信仰が必要だとわかりました。

つまり修養や心学といった日本古来の精神生活の価値をもう一度見直すことが、
本当に豊かな人生を築く基礎であると実感したのです。

修養で知識と心を磨けば、見栄や競争心、嫉妬心で心を乱され本来の自己を失うことはありません。

大切な時間を、最愛の人と生きる時間を失うことのない強い精神と魂を形成できるのです。

人生は時に病めるものの魂にやさしく微笑みかけてくれるのです。

本来向精神薬など不要なのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。北近畿滞在録はあと2回で終わります。)

(2019年5月24日午前9時過ぎ執筆したものを2019年6月3日加筆修正)

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性 私大経済学部経済学科卒業 経済学士 専攻は古典経済学(アダムスミス、マルクスなど) 若いころから病気がち アルバイトや自営の仕事を転々とする 現在、自立支援医療、障害基礎年金2級 手帳2級の社会福祉制度利用者 2000年ベンゾジアゼピン服用(レキソタン、ロヒプノールなど) 2015年(40代の前半)にベンゾ常用量依存と 過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 一人暮らしなので自炊。食事の改善をはかる 現在はご飯とお味噌汁の一汁一菜の一日に食生活 障害年金と家族の支援を受けて生活しています。 先の不安を感じながらも 節約と療養に明け暮れる生活を送っています 薬害を受けてもないことにされるという資本主義社会の 矛盾に気づき社会福祉を受けることでマルクスの資本主義分析に共鳴