一度慢性化した痛みというのは永続的に続くものです。
永続と言っても痛みが緩和する時間があるので正確には断続的です。
今の私の痛みは明らかに薬物=ベンゾジゼピンの離脱によってもたらされたものです。
最初は筋力も体液の分泌もありましたが、その分、痛みがありました。
胃がんを疑うほどの痛みで何度も消化器内科へ通院したものです。
救急車と利用したこともありました。
どこへ行っても異常なし。お決まりのように「ストレス」「精神疾患」
と診断されました。
この痛みの正体は筋萎縮とともに引いて行きました。筋肉が一通り萎縮、衰弱した今、
内臓のチクチク感はまだあります。そして今でもかすかに痛みは残っています。
ベンゾジアゼピン系抗不安薬のレキソタン5mg玉はまだのんでいます。
完全断薬してから薬物が体から抜き出るにつれ痛みは無くなるといいます。
その通りです。が、痛みの消失とともに筋肉の消失、衰弱があります。
これが怖いのです。
今は体が一回り小さくなりました。これでも元は大柄なので普通にみられます。
しかし内臓のチクチク感、時折痛みがあり、何より筋肉の衰弱、手足の薄化、関節のクッション機能の低下という
体力全体の衰退に悩まされます。
そして各器官の「枯渇」感があります。「感」ではなく実際に枯渇しているのです。
それが「感覚」として伝わるから「感」でも間違っていないのですが、「感」というう言葉で「気のせい」という
遠回しな意図がこの「感」という文字には含まれているのです。
そしてベンゾによる痛みや衰弱を理解しない、理解しようとしない人達にはこの「感」という文字を使った説明が有効
なのです。
おそらく他者の潜在意識には、精神病者のタワゴトで理解するつもりはない。全て気のせい、錯覚ということにしよう」
という意図がうごめいているのです。
精神の障害者にとって辛いのは、この障害による社会的偏見、差別だけでなく、
痛みや衰弱に対する理解が全くなく、ここで障害者の側は仕方なく精神医療の教科書に出てくる概念や言葉を用いて
他者を説得させねければならない苦労がつきまとうのです。
普通の人間性を持った方なら、ほんの少しの想像力で私の主訴を理解してくれるのですが、そうでない人、
例えば看護師という職種の人達は悪い意味での教科書、それも看護学か何かの畑違いな内容で患者に接しようとし、
うまくいかないと患者、障害者である私に八つ当たりを始めるのです。
精神科の訪問看護という少し専門をかじった看護師だと精神医療の教科書そのものの理論を持ち込み
ひたすら投薬の対象にするでしょうから注意が必要です。
この精神障害という概念には治療法はありません。ただ薬で症状をマスク(隠す)ことだけが主眼に置かれます。
当然副作用(主作用)があり、これまでなかった苦痛と症状が出てくるのです。
継続的な投薬は必ず継続的な後遺症を引きおこします。
西洋医学で精神や心を治そうとすることが非常におこがましい、
自然の摂理、自然科学に背いたことなのです。
あえて観念的な表現をすれば神や仏を畏れない不謹慎な行いを精神科医たちはやっているのです。
精神科医は本来の科学や宗教の本質に背いたエセ科学、カルト宗教なのです。
都合のいい科学(モノアミン仮説)、都合のいい宗教観念(奇跡、福音)などを言葉巧みに使い分けているのが
精神医療なのです。
痛みと苦しさのあまり、精神薬の薬害にあったものでさえも精神科医とそれを擁護する医療関係者の言葉で
薬をのむことがあるのですから、精神医療は本当に罪深いものだと思います。
こうした中で唯一効果があるのは、「食事」「会話」「運動」です。
運動は筋肉症状がある場合無理にできませんが、食事と会話療法はお金と人材がそろえば
簡単にできる日常的なことです。
特別な器具や薬物はいりません。
ただ一緒に食事をし、話す相手がいるだけでベンゾの薬害は緩和され継続すると根治する力があると確信しています。
2017年私は薬害で苦しむ中、家族から見放され(この時点でもともと家族ではなかった、機能不全家族だったと露呈されたわけですが)
社会福祉を導入し、意識を回復しました。2017年当時の私は完全に何らかの重度な精神疾患の状態だったはずです。
ヘルパーさんがキッチンに立ち料理をし話してくれることで少しずつ回復していったのを覚えています。
悪い人材(相談支援専門員のT)みたいなのもいて苦労しましたが、それでも食事と会話によって少しずつ意識が回復し、痛みが緩和する時間が
多くなりました。
残念ながら筋肉は衰弱し、2017年当時よりも筋肉が減少しました。レキソタンも5mgを夜に一錠のんでステイという状態です。
レキソタンの量は2017年当時と変わりありません。
途中断薬やレキソタンの増量、サイレースを追加したこともありましたが、
結局レキソタン5mg錠一錠の服用でのステイが今の私に合っているようです。
たかがレキソタン5mg玉、一錠。服用して5年以内ならすぐに抜けたでしょう。
しかし19年も服用していて筋肉衰弱や内臓の痛みがある場合、すぐに抜く訳にはいきません。
精神症状では希死念慮もありましたから、その意味でも断薬は注意を要するのです。
それにしてもベンゾという向精神薬で人生を棒に振りました。
薬物に支配された人生でした。
今から思えば、薬物依存のあまり重要なことを自ら放棄し、自滅的な行動をとっていたことが思い出されます。
元気薬ではありません。一時の高揚です。それは破滅への導きます。
3月、これから暖かくなればレキソタンの断薬はできるでしょう。
しかしその後継続できるかわかりません。福祉の人材、環境、障害年金といったお金の問題。
複雑なことがからみます。
精神薬をやらずに食事ができる。家族と食事ができる。この当たり前のことがどれだけ贅沢か。
家族をもっても会食をする大切さがわかりました。
(ちなみに私の毒父はこの反対で会食をしようとしません。所詮医者相手の接待ばかりしていた元MRなのもありますが、
「心」の無い人格なのでしょう)
食事と会話と運動=つまり「会食、軽い運動」が人間の脳を回復させるカギをにぎっているのです。
普通のことです。孤独内省の時間も必要ですが人間は社会動物でもあるので、完全な孤独は脳に負担を与え健康を損なうのです。
痛みを緩和するという観点からも会食の重要性をあらためて認識しています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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