ベンゾジアゼピン薬害無責任体制 時代に翻弄される服用者

時代に翻弄されているのでしょうか?のんではいけないクスリをのんでしまい、
人生を破壊された。多くの人が時代に恵まれながらも時代から見放された歴史があるように

今向精神薬の依存で体と人生を破壊されたものは、医療という最も無責任な、かつての日本陸海軍に存在した
無責任体制。

無謀な作戦で兵隊の命を粗末にしても責任を問われない上層部の構図が
今の日本の医療現場に置き換えることができます。

「昔陸軍今官僚」など戦後日本の無責任体制を揶揄する言葉が90年代初めまでありましたが、
今は健全な権力批判、反体制のメディアはなく、ただひたすら大衆に迎合し、
権力の機嫌をとる。

そうした体質が日本人の多くに行きわたり無自覚な大衆として操作されています。

私もその操作された人間の一人。もっとも警戒すべき医療を信じてしまった結果は、かけがいのない
健康、人生、時間、あらゆる恵みと富を奪い去られました。

象徴的なのは「筋肉」。これは肉体美の象徴、強さの象徴です。機能的にも美的にも自分の強さを奪われ
無責任な医療への反抗心も福祉を受けるため、障害年金を受けるため迎合しなければならない。

苦しみと葛藤。

いつも極限の選択を迫られる。かつて戦った大東亜戦争で散った名もな
き兵士たちの無念と怨嗟の声が

今の私に乗り移ったかのようなこの世の生死を彷徨う日常があります。

いつどこで倒れるかもしれない。名誉の戦死すらない。そうした理不尽に皮肉を言うこともできない。

衰弱しているのに意識と思考は比較的明瞭であることの不思議。

「これは何かの前触れか?」と思わざる得ない意識の変容を苦しみの中から見出す毎日が続いています。

生命というのはなかなか強いもので本来存在し他筋肉が
薄くなり内臓の働きが弱くなっても、まだ最低限の思考と行動をとることができる。

「いっそのこと始末してほしい」と思うほど、「中途半端な生存」を強いられています。

これが薬害であるという原因がわかっているからこそ、
まだ平静でいられる一方で「どうなるかわからない」という不安。

二つの矛盾した思考と感情が常に交錯しています。

「大人しく過ごすしかない」障害福祉を受ける決意をしてから淡々と自らの行動を戒めました。

自分でも驚くほど謙虚な気持ち。時折怒りに似た感情や義憤にかられることはあっても、どこか自分を達観しています。

ヘルパーさん週に3回。訪問看護師週に一回。週に4回の福祉サービスを受け気持ちを保っています。

最近では筋肉痩せの進行が早く、ヘルパーさんからも痩せを指摘されます。

食事も水分量も十分にも関わらず、栄養の吸収と代謝が悪くなっているために食べても身につかず
動いても疲れを感じない、神経伝達の異常に襲われているのです。

生きているのに何かが伝わっていない違和感。どんなに自分を鼓舞しても空しさが残ります。

ポピュリズム大衆迎合主義を批判してきた私がもっともオーソドックスで
原始的な詐欺であり大衆迎合主義である
精神医療の罠にはまり、ベンゾジアゼピン系化合物質にのみ込まれてしま
う最も愚かな人間であった。

こうした慙愧の念に日々襲われながらなお神経痛と筋肉減少という現実を受け入れる日々。

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全ては2000年(平成12年)のレキソタン(ベンゾジアゼピン系ブロマゼパム)から始まりました。

ちょうど6月が初診です。そう今頃の梅雨時。当時酷い肩こりに悩まされ、ベンゾジアゼピンに筋弛緩作用があることを
本で知ったことから自ら精神科医の門をたたき処方してもらった。

残尿感や皮膚の違和感、性格の変容などクスリの副作用に違和感を持ちながらも、それまでにない高揚感で
すっかりベンゾジアゼピン系のレキソタンというクスリに魅了されてしまった。

愚かしいですがその依存性の強さから多くの人が精神科医の毒牙にかかり今こうして「ベンゾジゼピン離脱」が
問題になっているのです。

私は長期にのみすぎました。途中セルシン(ベンゾジゼピン系ジアゼパム)まで追加され重度の薬物依存。
その間知的にも精神的にも肉体的にも多くの力そしてお金と時間を費やしてきました。

まさか薬物依存の最中にいる危険を省みず、ただ自分の不満、我がままを満たすための幼稚で幼い言動を
正当化するためのクスリへの依存。

かつての志は怠惰と卑屈になり、本来の志を置き去り世の中で必死に生きる人達を見下すことで自らの劣等感を

克服しようとした愚かしさ。

愚かな自分を正当化するのにベンゾジゼピンの薬効が拍車をかけたのです。

筋肉が薄くなった体の今になって昔の自分など何も文句のない恵まれた環境に
ありながら何に不満を持つことがあったのか?今過去へ戻れるなら自分を叱ってやりたい。


「飲めばのむほど凝り固まるクスリ」

「肩こり」が主訴で自ら希望し処方されたベンゾジゼピン系ブロマゼパム(商品名 レキソタン)

最初は2mgを朝夕。医師のいうようにのみました。最初に飲んだ感想は、「肩こりは飲んでいる間だけやわらぐが、

薬が効かなくなるとよりこわばる」でした。

ですから「レキソタンは常用し肩こりが治るまでのむ」という愚かな決断でのみつづけました。

レキソタンに依存したのは肩こりの緩和目的だけでなく、飲んだあとの高揚感です。

この状態を保ちたいためにレキソタンに違和感を持ちながらも常用する正当化を行っていました。

簡単に言うと「依存の正当化」です。

本当はもう「そのクスリなしではいられない」ようになっていたのです。

依存性の高いクスリだと気づいていました。

副作用も自覚していました。

それでものみ続けたのはクスリへの盲信と強い依存性があったためです。

あとでインターネットで情報を取集していると、

「ベンゾジゼピンの肩こり緩和作用は実は違法なクスリと同じ筋弛緩作用でのんでいる間だけ
効くが、常に飲み続けんければならない」

という趣旨の記事を読みました。この記事でようやく自分が服用初期に持っていた
「違和感」が正しいとわかりました。しかし既に15年のんだあとで、離脱症状に苦しんでいるときでした。

主訴の肩こり緩和に効かないばかりか、精神状態まで余計ウツにする。

高揚感、元気になるともい込んでいたのは実は「錯覚」であることに気づかされたのです。

ベンゾジアゼピン系の抗不安薬は、実は長期服用してはならないというのが諸外国の基準で
日本の医療界ではそれが金儲けのために無視されているという現実に気づかされたのです。

つまり「時代に翻弄された」のです。

薬害は他人事(ひとごと)と思い込んでいたのに自分が該当者になってしまった。

それも長期服用で支離滅裂な言動をとった後で後遺症レベルの状態が続いている。

気付いた今では何もかも朽ちてしまい茫然自失の状態。

こうしたクスリの野放し、無責任体制、まさに時代の犠牲者。

「運命の徒」「時代の犠牲者」になってしまったのです。

誰が悪いかわかっている。のんだ自分も悪いが、ウソをついて処方し飲ませ続けた医者はもっと悪い。

そのような危険なクスリをウソの薬効で仕入れ売りさばいている製薬会社がもっと悪い。

しかしこのような巨悪の構造は隠蔽され、ウソのプロパガンダ」が世論となっている。

犠牲になるのはいつも末端の名もなきもの。

そうかつての末端の名もなき日本兵につながるものもあるのです。

「国のため、名誉のため」という観念の実態は、単なる人命軽視の効率主義、利益主義。

それが戦後労働者の搾取に応用され、そのストレスの緩和と称し
て危険なクスリが医療の名の下横行している。

実は戦前の日本社会が持つ無責任体制がいまだに横行している。

犠牲者は時代に翻弄されているのです。

いつまでもこのような愚行を繰り返す。姿かたちを替え、末端の者たちを犠牲にし利益を上げ、
責任の所在をあいまいにし隠蔽する。

こうした体質が日本という国や社会の大きな欠陥として存在している現実を分析し、認識しなければならない
状態に来ています。

あらゆる分野で日本のこうした無責任体制は変わっていません。

自浄作用があまりにも少なすぎるのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性現在、自立支援医療、障害基礎年金2級 手帳2級の社会福祉制度を利用し自宅療養中 2000年ベンゾジアゼピン服用(レキソタン、ロヒプノールなど) 2015年(40代の前半)にベンゾ常用量依存と過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 現在断薬5年経過  筋肉もほぼ回復