「断薬から5年10か月 ― 不調の自分も、確かに“わたし”だった」

 




最後の断薬から5年10か月 ― 不調も自分の一部として認めていく

【目次】


はじめに:5年10か月の節目

2025年5月3日。最後にレキソタン(ベンゾジアゼピン系)の服用を終えてから、ちょうど5年と10か月が経ちました。
長かったような、あっという間だったような――そんな感覚の中で、心と体の変化を丁寧に見つめ直す日々が続いています。


体の変化:首まわりと左半身の改善

ここ最近、明らかに体に軽さを感じる瞬間が増えてきました。
特に辛かった首周りの硬直が、驚くほど緩んできています。これまで何年もの間、常に緊張していた部分がようやく静かになり始めたのです。

それに加えて、ずっと苦しんでいた左半身の歪みと硬直も少しずつ改善しています。姿勢も自然に整い、歩き方や座り方に無理がなくなってきました。

こうした変化は一朝一夕のものではなく、日々の散歩やストレッチ、そして「無理をしないこと」の積み重ねの成果なのだと実感しています。


静かに押し寄せる虚無感

身体が回復してくると、それまで隠れていた心の奥の空白がふと現れてきます。
「もっと早く元気になれていたら」「この空白の時間に何ができただろう」――そんな後悔や虚しさが、不意に心に差し込んできます。

不思議なことに、調子が悪い時は「とにかく今を乗り越えなければ」と必死だったのに、元気に近づいた今、静かな虚無感に包まれることがあるのです。
それはまるで、長い冬のあとに訪れた春が、どこかまぶしすぎて目をそらしたくなるような感覚に似ています。


不調の自分を否定しないという選択

この頃は意識的に、「調子が悪かった過去の自分」を否定しないようにしています。
つらかった、苦しかった、それでも生き延びてくれた――その時間こそが、今の自分を支えてくれている大切な土台なのだと。

不調だった時期の自分を、「無駄だった」「何もできなかった」と見なすのではなく、その姿も自分らしかったと認めていく。
そうすることで、少しずつ自己肯定感を取り戻すことができるように感じています。

生きている限り「自分」であることには変わりないのです。薬を飲んだ自分も倒れたときの自分も世間的にはダメでも自分は自分でこうして生きてきたのですから尊いのです。

完璧じゃなくても、いつも前向きじゃなくてもいい。
「それでも私はここにいる」と言えること自体が、何より大切なのだと思うのです。


おわりに:そのままの自分で

5年10か月の歩みは、苦しみも回復も、自分の中にすべて刻まれています。
だからこそ、ただ「健康になる」ことだけをゴールとせず、不調の時期さえも大切な自分の一部として抱きしめていたいと思います。

これからも波はあるでしょう。気分が沈む日も、身体が重い日もあるかもしれません。
でも、その時々の自分と丁寧に向き合いながら、焦らずに歩いていけたらいいのではないでしょうか。

今日も静かに、自分のペースで過ごしていきます。


 



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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性。現在、自立支援医療や障害基礎年金2級、手帳2級の社会福祉制度を活用しながら自宅療養中。 2000年よりベンゾジアゼピン系薬(レキソタン、ロヒプノールなど)を服用。 2015年、40代前半に常用量依存と過労の影響で倒れたことを機に、自宅での療養生活を開始。当時服用していたベンゾジアゼピン系薬の有害性に気づき、断薬を決意。 2019年7月3日にレキソタンを断薬。現在、断薬から5年が経過し、筋肉の回復をはじめ身体全体の健康を取り戻しつつあります。 療養生活を送りながら、社会復帰を目指して日々前向きに過ごしています。