レキソタン断薬と再服用 精神と肉体の変調

再び断薬をしています。

レキソタン5mgを再服用していたのが4月上旬。
そこから少しばかり調子が上向いたので、5月3日からまたレキソタンの断薬を始めています。

急な断薬は良くない、服薬と断薬を繰り返している」などとお叱りを受けそうですが、
完全断薬を継続していた期間は約4か月。そこからレキソタン5mgを頓服的に飲んでいました。

レキソタン朝夕2回の1日10mgの服用はもう一度体を立て直し、そこから漸減の予定でしたが、

性格ゆえかまた断薬を始めてしまいました。

夜は眠れます。規則正しい生活で家事もできています。ただ胃が縮小した感覚が苦しく、
時折過去の記憶が甦るフラシュバックに悩まされます。

そこで食生活の改善をはかり薬害を克服しようと試みて、サラダ油を撤廃して、
動物油脂を使った食生活にシフトするなど、精神薬以外の毒を体にいれない
苦労をしています。

苦しさは続いていますが、これがレキソタンの禁断離脱症状なのか、それとも胃の不調かわかりません。

福祉の相談支援専門員が心理的負担になっていたので新しい人に交代するという変化も
レキソタンの再服用と断薬を繰り返している間にやりました。

つまり栄養面、心理面を改善することで、「断薬は完全に可能ではないか?」という目論んでいました。

が、やはりある程度のレキソタンは私にはまだ必要なようです。

植物油、サラダ油という食事面からの毒、前の相談支援専門員Tからの心理的負担という毒。

この2つの毒を排しても、ベンゾジアゼピンであるレキソタンの離脱禁断症状からはまだ
逃れることができていません。

5月6日現在断薬中でいずれ再服用を計ろうと思っていますが、再服用のタイミングはいつになるかわかりません。

食事をおいしく食べることを考えるとベンゾ毒をあまり考えずにのみ続ける方がいいのかもしれません。

もう自分ではどうしていいか全くわからない状態です。

「筋肉症状」

セルシン(ジアゼパム)断薬から3年(2015年~)レキソタン大幅減薬からも3年経ちました。

その間に筋肉はずっと減少し続け来ている服がブカブカになりました。

ズボンもずれるようになり移動の時に着衣が引っかかり危ないです。

手足の関節は細くなり、少しモノに振れただけで痛みを感じます。

以前の自分にはなかった手足のスカスカ感覚。

移動は当然困難で、ヘルパーさんの通院介助や移動支援といった福祉サービスを受けています。

何をするにも人の助けが必要です。

それでもまだインターネットで買い物をし、行政手続きや各種連絡の手段にできていていることはまだ
幸運なほうです。

福祉の人間関係は今の新しい相談支援専門員と新しい訪問看護ステーションが加わりました。
変化は心理的ストレスになりますが、前の相談支援専門員Tよりはマシです。

レキソタン再服用中の人事判断でしたが、正しいと持っています。

実は薬の減断薬は、禁断離脱症状や後遺症だけでなく、「自分の言動が適切なものか?」

「この判断間違っていないか?」と常に意識させられ、苦悩することが付きまとってきます。

薬は自分を必要以上に責め悩まさる自責の念を大きくします。

これまで薬に依存して、薬の力で気が大きくなっていた反動と、判断ミスで人生に
取り返しのつかない過ちを犯してしまったことへの大きな反省があります。

弱り目に祟り目、最初の福祉からは虐待に近い待遇を受けました。ヘルパーさんには助けられたものの、
相談支援専門員Tと訪問看護ステーションHは自分にとって屈辱的な扱いを受けました。

さっさとセルフプランか別の事業所に変えておけばよかったものの、
ベンゾ減断薬から来る「自責の念」が自信を失わせ、優柔不断な状態が続きました。

筋肉、関節、内臓器官、全身が衰弱する中で他人にとって軽易な判断さえも、
難しいものにされます。

「間違いのない人間はいない」

過ち、間違いのない人間などいません。
ですから今の自分を極端に責めず、仮に間違いがっても、「自分は甘えていい障害者だ」と言いきかせています。

そうしないと極端に卑屈になってそこに悪質な福祉業者がつけこんでくるという事態になるからです。

よく「障害者は甘え、特に精神は甘え」と言われますが、社会的に障害者として抹殺された
からには、障害者総合支援法、障害者虐待防止法、障碍者権利条約などの法律や条約によって

自らの人権とさまざまな権利を行使すべきなのです。

反論、反発はあろうとも
卑屈になって福祉業者から虐待を受けて過ごすよりはマシです。これは私のためだけでなく

福祉業者のタメにもなるのです。

福祉は弱者を守る崇高な職務ゆえに国家からお金が出るのです。

そこに目をつけ金儲けだけ」の人達が入り込んでいるのは、確かです。
しかし金儲けだからこそ法を守り、サービス(奉仕)に徹するのです。

福祉業は国家からお金が発生するので「とりっぱぐれ」の無い業界なのです。

法とモラルを守り自らの教養を高めることで障害者に奉仕することでその対価を国家から
得る。福祉業者には誇りを持ってもらいたいです。

薬害は肉体的苦痛だけではなく、精神的苦痛や苦悩をももたらします。

決して帰ってこない過去の時間への執着。

「自分を見失っていた」後悔。毎日が肉体的精神的苦痛の連続で

やはり再服用という無限ループに陥るのです。

しかし薬をのんでいた過去を克服するために断薬のこだわる自分がいるのも確かです。

「ジレンマ・葛藤」

断薬は常にジレンマ・葛藤、自責の連続です。

自分を冷静に保つには、よほどの読書と深い思索と瞑想が必要になります。
宗教的になりますが、「時間」だけはお金では買えません。

お金でうつ病が良くなるというのは事実でしょうが、自らの愚かな過去は、お金では
変えられません。

むしろ、さらなる薬依存の罠が待ち受けています。

お金の基盤を整えつつも、宗教的な何か、精神修養が必要になってくるのです。

別のどこかの教団に入るとかそういうことではなく、普通の人との交わり、
会話こそが「心の隙間」を埋めてくれるのです。

「精神薬という愚かさ」

実はレキソタンという精神薬を服用した18年前も今と同じような精神的苦悩がありました。

これを「うつ」「心身症」と位置づけレキソタンなどベンゾを肯定したのが良くなかったです。

人生に精神的苦悩はつきもの。本来の自分を見失うことはあるものです。

何もかもベンゾジアゼピンのせいにせず、元からあった性格や環境といった側面も考慮に入れなければなりません。

当然一人では無理ですので福祉に頼ることになります。

去年は失敗しましたが、今度の新しい相談支援専門員は人生経験のある年配者です。

必ず新しい何かを発見できると信じています。

こうした「良き何か」を通して胃の不具合や筋肉の衰弱が緩和されてば、
また強い自分に戻れるのではないか?と期待しています。

ベンゾ減断薬と再服用から来る精神と肉体の苦悩、苦痛。

自由を奪われた状態。

それでも平静を保っていることができている。

もし今の精神状態や知識が向精神薬を服用する前にあったなら、人生はずいぶん違ったものになったでしょう。

今の自分が「本来の自分ではない」とはいえ、自分には変わりなく、常に自分を肯定できる力を
引き出したいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性現在、自立支援医療、障害基礎年金2級 手帳2級の社会福祉制度を利用し自宅療養中 2000年ベンゾジアゼピン服用(レキソタン、ロヒプノールなど) 2015年(40代の前半)にベンゾ常用量依存と過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 現在断薬5年経過  筋肉もほぼ回復