残酷な運命

それにしても、残酷な運命を辿っています。

体のこわばり、萎縮。自由を奪われ自宅に困らざるを得ません。

病床では過去の過ちに気づかされ精神的に極端に不安定になります。
これがもしヘルパーの支援がなければ、とっくに隔離されていたであろうことを思うと
人間の存在というものは不思議な力を持っていると思います。

しかし人の支援で力をもらうほど、
70代の父親からのネグレクトは非常に悪意のあるものだと痛感させられるのです。

コメはよく送ってくれます。なので良い両親と思われるかもしれませんが、
今の私の朽ちた状態は全て知らせています。

大人なら相手がどういう状態であるか?想像がつくはずです。

しかし仮に想像できるほどの想像力が父にあれば、私はベンゾとは
無縁で自宅にはいなかったでしょう。

やはり家庭環境に呪縛され、せっかくの人生のチャンスと才能を奪われたのです。
お金はそのための手段の一つです。

その手段が目的になって子供の命を削っている。

「命よりカネ」の戦後経済の価値観が私の父を覆っているのです。

病人の「命=金」とは違うのです。

明らかに助かる人でもその人が「金にならない」と判断されれば
冷酷な仕打ちを受けるのです。

まるで暴力団そのものの発想。
それが私の毒父なのです。

家庭環境は選べません。自衛し自ら脱却するしかなかったのですが、
私は見事に洗脳され、クスリに縛られ、

挙句に筋肉の自由を奪われました。

まるで計算したかのような仕打ち。

これを「運命」の残酷さと痛感しているのです。

志を尊重する原点に

どこでどう間違ったのかしれません。ただ間違った
のは「志」を立てるという感覚を捨てた(捨てさせられた)ことです。

青臭い言葉ですが「志」を大切にする考えは必要です。
志とは「己に対して忠実な心」です。
この考えは戦後社会においては、否定又は軽蔑されてきました。

私の毒父がそのような人物です。

つまりそのような父に対抗するため自ら読書体験などで
重視していた志を毒父に洗脳されている間にハコモノ・思考に洗脳され、
志を放棄していたのです。

洗脳が解除された今、その志が甦っています。(ここで言う志とは、今や前向きではなく、
かつての自分の抱いていた「思い」です。

しかしもう膨大な月日が流れました。

そして体は朽ちています。

ただ悔恨の情があるのみです。

自分を取り戻し、やり直したいという情熱が出てきた頃、年齢を重ね、
体がボロボロになっているのです。

歳月は取り戻せません。健康も取り戻せません。

ただ嘆くのです。

ベンゾの薬害といえばそれもあります。脳に作用しますから

、毒父からの洗脳というより
薬害作用が唯一の原因とも考えられます。

洗脳か薬害か?真の原因はどちらかわかりません。

犯人探しをしても徒労に終わるでしょう。

ただこのような考えが病苦と貧窮とともに毎日去来しているのです。

根深いものがあります。

これも運命なのでしょうか・・・

なぜ私だけが「普通」を阻害されるのか?・・

大きな不運を感じさせられるのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性 私大経済学部経済学科卒業 経済学士 専攻は古典経済学(アダムスミス、マルクスなど) 若いころから病気がち アルバイトや自営の仕事を転々とする 現在、自立支援医療、障害基礎年金2級 手帳2級の社会福祉制度利用者 2000年ベンゾジアゼピン服用(レキソタン、ロヒプノールなど) 2015年(40代の前半)にベンゾ常用量依存と 過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 一人暮らしなので自炊。食事の改善をはかる 現在はご飯とお味噌汁の一汁一菜の一日に食生活 障害年金と家族の支援を受けて生活しています。 先の不安を感じながらも 節約と療養に明け暮れる生活を送っています 薬害を受けてもないことにされるという資本主義社会の 矛盾に気づき社会福祉を受けることでマルクスの資本主義分析に共鳴