アドセンスの規約に触れないように注意

言葉というか表現は非常に重要で私が良かれと思い込んでいた「言葉」
表現法が実はアドセンス・ポリシーに抵触すると気づき、昨日、ブログの大幅編集をしました。

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中には、NGワードも含まれており、このままではアカウント警告を受ける状態でした。

そのような言葉は削除し別の言葉に言い換えました。

そもそも自分のブログを人にみせられるか?ということです。

「他人の目を気にして」とか「他人の評価を気にして」という視点ではなく、
純粋に自分の言葉、表現が後で人に見せることができるか?」という視点です。

これは決して他人や世間に迎合することを意味せず、「未来の自分」に申し訳が立つかどうかなのです。

「自分が正しい」と思い込んでいた言葉や表現は後から見るととても他人に公表できるものではなく、
アドセンスのポリシー云々以前に自らの品位を下げる引いては記事の質を下げることに気づきました。

つまり私の独り善がり、「独善」だったのです。

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ただ、あえて弁明するなら、この世の不正、腐敗をシンプルに表現するには、
アドセンスポリシーに抵触するような言葉
のほうが手っ取り早いということが時にはあります。

(しかしそれはまた同時に思考停止を招き、独善に陥ることにも気づきました。)

基準はアドセンスポリシーにあることはもちろんですが記事の質を高めるには、なるべく
レッテル貼り的な言葉を使わないということです。
シンプルに書くこととは別です。

自分の思いを単純明瞭、シンプルに書くことは必要です。しかしそれが独善に陥り
レッテル貼り的な言葉を使う正当性にしてはならないということです。

独善がやがて排他的になり、自分の思考や常識が非生産的で人の評価を得られないものになります。

そうした積み重ねで独善に拍車がかかり、余計、自己中心的な傲慢さにつながるのです。

ベンゾジアゼピン依存に陥る前から、実は私はこのような性格でした。

ゆえにクスリの危険を本能的に察知しても、ベンゾのプロパガンダを肯定的に解釈し、
ベンゾの罠、精神医療の罠に陥ったのです。

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あとは依存で異常な言動、そして離脱の苦しみ、結局福祉に助けを求めるも、そこも不正と不道徳のたまり場で
今の私は「事業自得」とも言える状態です。

ただこれまでの負のスパイラルとは異なるのはインターネットがあること。
そして私にはまだ
薬をのむ前の知識や見識が僅かばかり残っているということです。

何より従前の負のスパイラルと異なるのは、
福祉ヘルパーで来ている女性の存在です。非常に古風で庶民的、知恵を持っている今時珍しい感覚の女性で、
話していると遠い昔に戻ったような感覚になります。

もちろんその女性は既婚で子供もいます。しかし
同時に世間やネットで叩かれている宗教団体の準構成員です。

この点、私が警戒していましたが、どうやらこうしたことは個々人の問題であり、
世間で言われるほどの危険は、今のところ、あまりないとということです。

自分の記事の言葉、表現から反省し、さらに福祉ヘルパーさんとの交流で自らの未熟さ、独り善がりを
思い知らされました。

「ブログの運営のもう一度見つめなおす」

こうしたことを踏まえて、現在、過去記事の大幅編集を行っております。

アドセンスポリシーに抵触するもの、すると予想できる言葉はもちろん、自らの良識で

考え適切な言葉かどうか?判断しています。

基準は1)「他人にみせられるか?」2)「後で読んでみてどう思うか?」です。

1)の他人にみせられるか?は決して他者に迎合することではなく、
そのブログ記事をすぐに見せることができるか?ということです。

ここで「いやそれは」と引っかかるものはほとんどが「きつい表現」「適切でない言葉」に満ちているものです。

2)の後で読んでみてどう思うか?」は、ブログの過去記事を自分で後で読んでどう思うか?という自己基準です。
ここでもひっかかるものは不適切な表現に満ちているものです。

これは記事をたくさん書いて後で見直すことが前提になるので、ブログを毎日書くという習慣の積み重ねが
必要になります。

ブログを書くということは結局毎日の習慣であり、平成の心掛けです。

常識的な思考をしていれば(常識は時代ともに変化するので普遍的ではありませんが)
ほぼ間違いなく、正しいブログ運営につながり、自らの思考パターンを良い方向へ導き、
それがまた運笑みの好転につながるのではないか?」という
期待につながっています。

少し非科学的かもしれませんが、こうした「思考の変化による運命の好転」は存在すると
最近になり、気づき始めています。

ただ処方薬依存で壊された体と福祉分野での一部不心得者の存在でどこまでそのような平常心を保てるか
少しばかり不安が残っています。

余談になりますが、

福祉分野における一部不心得者から学ぶこともありました。
それは彼らは投げやりになっているということです。
何の利益にもならないのに、利用者のサービスを遅延するという好ましくない行為を
「自分は丁寧な言葉遣いを知らないから」と正当化していることです。

これではいつまでたっても思考の貧困から逃れることはできず、
自らの運命を良くない方へ導いているのです。

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こうした
福祉分野における一部不心得者は私の反面教師。今は解任した相談支援専門員のT君からは逆に学ぶことが
多かったのです。
自らの未熟さも彼から学ぶことができました。

結局自分の言葉や表現が運命を形成し、好転させていくということに気づきました。

もちろんだからといって環境や制度を批判してはならないということではないのです。

環境や制度を批判するあまり、自分の言葉や表現が過激になっていないか?投げやりになっていないか?

総点検する必要があることをブログ記事の編集作業をしながら思いました。

結局物事は感じ考え方で決定するというある種の観念論的な考え方もある

意味正しいと気づきました。

ただ薬の力は、そうした思考過程をも破壊するのですから、究極的に良くない、好ましくないということが
あらためて認識されます。

「言葉と表現」「思考の形成」という観点からもベンゾジアゼピン薬は好ま

しくない作用を持ち運命の好転を妨げる存在なのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性。現在、自立支援医療や障害基礎年金2級、手帳2級の社会福祉制度を活用しながら自宅療養中。 2000年よりベンゾジアゼピン系薬(レキソタン、ロヒプノールなど)を服用。 2015年、40代前半に常用量依存と過労の影響で倒れたことを機に、自宅での療養生活を開始。当時服用していたベンゾジアゼピン系薬の有害性に気づき、断薬を決意。 2019年7月3日にレキソタンを断薬。現在、断薬から5年が経過し、筋肉の回復をはじめ身体全体の健康を取り戻しつつあります。 療養生活を送りながら、社会復帰を目指して日々前向きに過ごしています。