レキソタン服用と障害福祉の活用でQOLの安定化

 

「レキソタン服用と障害福祉の活用でQOLの安定化」

再びレキソタン・ネタです。

2015年の大幅減薬から3年経過。

レキソタンと同時にカクテル処方されていたセルシンを断薬できました。

残るレキソタンは余裕で抜ける思い込んでいました。

しかし現実は違いました。

今でもレキソタンを抜くことができず、断薬失敗の繰り返しの挙句

今度は再服用の誓いを立てて現在朝夕のレキソタン5mg×2合計10mgを服用しています。

ステイすることにしたのです。

ベンゾ減薬したことにより、

今は筋肉が数パーセント減退した状態+胃痛が軽く残っています。

また胃痛緩和にレキソタン、漢方の六君子湯を服用しているのですが、

胃痛は、過去の急な減薬、断薬が失敗したことが原因の後遺症だと思うので、

レキソタンを再服用しても昨年のような薬効はあまり感じられません。

 

 

ここで言えるのは、レキソタン等ベンゾジゼピン薬剤を減薬する時は、

「慎重にすること。」すなわち「漸減」です。

ネット情報で断薬にこだわるばかりに

苦しみを抑えてまで断薬する必要はないということです。

昨年から今年の春までレキソタンを適度に服用したことがありましたが、
見事に薬効があり、行動的になったのを覚えています。

しかしそれで、すぐに調子に乗って断薬し寝込むという状況に陥りました。

こうした断薬と再服用の繰り返しから、

「レキソタンの服用は続けるべし!」との決断に至りました。

 

 

「断薬がゴールではなく脳の回復が目的」

レキソタンをのみ、よく食べよく眠り、QOLを高める。それに社会福祉も活用する。

こうしたサイクルが出来上がれば、自己肯定力も増し自然治癒力が引きだされ、
本当の意味での「断薬成功」の基礎つながるのではないでしょうか?

「急がば回れ」です。

なので、ベンゾジアゼピンのネガティブなネット情報をやたら集めたり
服薬に罪悪感を持つのは良くないことです。

 

それでレキソタンを再服用することにしたのです。

精神薬が神経毒だからやめるにせよ

そもそも私たちが常日頃料理に使っている
調味料(醤油、ポン酢、ソース、タレ、ホンダシ、塩コショウなど)

には「アミノ酸等」という化学調味料が入っており、

これも「神経毒」とされています。

某大手味の素の製品は野犬を捕獲するエサだそうです。

つまり私たちの身の周りには、

こうした毒、内海聡氏の言葉でいうところの「社会毒」にまみれています。

すべての化学調味料を否定するわけではありません。

私たちは何等かの毒を食べて生きていかざるを得ないのです。

化学調味料に比べれば、精神薬の方が有害で依存性があります。向精神薬と化学調味料、
比較してはならないのかもしれませんが、

「神経毒」という言葉に敏感になるくらいなら、「アミノ酸等」(アミノ酸ではない)
にまみれた食生活をも変えなければなりません。

到底不可能です。外食には必ず化学調味料が入っているので多少の毒とは付き合っていかなければならないのです。

そういう意味でレキソタンというベンゾジアゼピンという神経毒も私の中では容認できるのです。

間違った判断でしょうか。おそらく限りなく間違っています。

しかし断薬の苦しみでQOLが極度に下がり、食事も運動もままならない状態ならば、
マイナートランキライザーであるレキソタン単剤を活用し、「それが効いているのは幸運だ」と認識して
ポジティブに飲んでいこうという判断になりました。

断薬しても筋肉減少と皮膚医脆弱は悪化するばかりです。
ここでレキソタン断薬に伴う「抑うつ」状態が重なれば、
地獄の日々です。

 

 

「クスリには作用と副作用がある」

レキソタンの副作用ばかりに目を向け薬を完全否定する心理は一種の強迫観念です。

薬依存が断薬によって宗教依存につながる危険もあるのです。

そうした薬の依存患者の弱さを狙ってベンゾの危険を必要以上に煽っている
団体があるのですから要注意です。

弱みに付け込む教団に入るくらいなら、レキソタン単剤でQOLを高め、日々の生活を充実させたほうが健全です。

そうした健全なサイクルでの日常を送っている間に、レキソタンの量も減り、自然断薬できるでしょう。

私個人のベンゾ歴18年の経験から言えることは、レキソタン(ブロマゼパム)はまだ軽い、眠くならない。

アッパーにもマイナーにもなる。 セルシン(ジアゼパム)は頭がふわふわする。お花畑状態になり現状認識ができなくなる。

セルシンは、精神病棟で鎮静のために使われているという情報からも、
かなりきついクスリだとわかります。

ロヒプノール、サイレース(フルニトラゼパム)は胃腸の調子が少し良くなる。便秘が改善されるという作用があります。
主治医ものんでおり、同じ私と感想を持っていました。

(ちなみにその主治医自信ヤク中で現在70代前半ですが、呂律が回らなくなり、
筆談で診察という認知症状態に陥っています。。)

 

 

 

私個人はマイナーばかりでメジャーの経験はありません。

とはいえ、マイナーでも1日30mg(レキソタン1日15mg、セルシン1日15mg)ものんでいれば、
実質メジャー扱いだったと

自分と家族も認識していたのを覚えています。レキソタン1日15mg、セルシン1日15mは明らかに過剰処方で、
今でも犯罪処方だと思っています。
お蔭で人生の貴重な時期、時間を薬で失いました。

過剰処方の中のセルシン断薬で少しマシになりましたが、
後遺症があり、その症状緩和にレキソタンをのんでいる有様です。

ベンゾを完全に消し去りたい自分の中にあっては、レキソタン服用は苦肉の選択でした。

もし10年前セルシン追加に応じずレキソタン単剤
のまままなら今ほど苦しまなくて済んだでしょう。

そう思うと慙愧の念に耐えません。

もちろん、レキソタンというベンゾジアゼピ
ン薬剤にそもそも手を出したことを後悔しています。

しかし今は飲まざるを得ない。のんで福祉と活用しQOLの向上、社会復帰が果たしたいのです。

「障害福祉サービスのヘルパー派遣で生活基盤を」

急なベンゾ減断薬で重度の「抑うつ」と筋肉減少に陥っていた2017年春、
障害福祉サービスを申請、受給し、
ホームヘルパーを派遣してもらいました。
これにより、私の極端に落ちぶれた生活を好転させる起点となりました。

まず担当のヘルパーさんは、話のわかる会話上手で、なおかつ人の心がよくわかる

言葉を多く必要としないで理解しあえる方です。こうしたヘルパーさんとの対話の
おかげで、自分の持っている良さ、特技、潜在能力を認めてもらいました。
また過去の辛い体験をあらいざらい聴いてもらうことで、
心の傷が癒え、自信がでました。そうしたヘルプのプロセスから、
思考力が増し、「精神力」まで強くなり、「生活改善の全計画」を着想実践することができました。

 

 

 

掃除、買い物、パソコンのバージョンアップ。どれも打ちひしがれていた生活で野ざらしになっていました。
インドア・ホームレスといった状態で部屋は汚れ、ゴキブリとチリやほこりだらけで書類が山積みになっていました。

そこから掃除が少しずつ可能になり、
家事全般がはかどり、家電が甦りました。思考がまとまり、QOLが大幅に向上しました。
こうした生活の大幅改善によりそれまで放置していた障害年金の申請作業に取り組むことができました。

そうして今年に入り、障害基礎年金の受給が決まり、貯金と合わせて経済基盤が安定しました。

 

 

これは本当に大きな助けで貯金を一方的に切り崩す生活から一変、
わずかながらまとまった金額が安定収入が入ることになり息を吹き返しました。

こうした経済状況の向上によって、抑うつ症状が一気に改善したと思います。

胃痛などはまだレキソタンで抑えるしかありませんでしたが、
「お金」の基盤を得ることで、精神状態が変化したのは事実です。

同時にネット収入も月1万6千円程度安定して発生するようになり、筋肉減少に伴う機能低下にも関わらず、
少しばかり希望が持てるようになりました。

経済向上が精神に及ぼす影響を身を以って体験しました。

こうして得たお金を賢明に使うのにも、ヘルパーさんの助言が役に立っています。
(それでもクレジットカード散財の間違いを犯しましたが・・・)

上記の生活改善、経済状況の改善は障害福祉サービスの支援のお蔭です。

今や障害福祉サービスのヘルパーさんは今は私にとって欠かせない存在になっています。

一人で生きていけると豪語していた自分も40代半ば。

 

 

ベンゾ後遺症や過労と老化で倒れ込み初めて一人では生きていけない「人間の脆さ」
「弱さ」を感じています。

これまで「徒党を組む人」、「仲間に依存する人」を馬鹿にしてきましたが
、人間も所詮動物ですから、「群れ」をなさないと
どこかで狂いが生じることをこの年で病気に陥り痛感しています。

 

 

 

私はベンゾ後遺症以前に、こうした人間関係を軽視する性格が災いしたと分析しています。

「40代精神障害者」社会的には認めたくない、過去の志をたたて自分とは正反対の自分がいる。

こうした現実の辛さに打ちひしがれそうになりますが、
社会福祉はそうした人のための制度。

虐待リスクはあるけれど、社会福祉は、人間関係をうまく築けなかった人のための救済措置。
それが自分に必要な障害福祉サービスだと気づき始めました。

本来の自然な人間関係の構築が望ましいのは言うまでもありませんが、
今さら若き日に戻ってやり直すわけにはいかず、社会福祉、とりわけ障害福祉は、人工的といえど、
そうした人間関係の再構築のための重要な社会的装置です。

 

 

 

(余談になりますが親は子供に家族以外の人間関係の重要性を教えるべきです。
そうせず過保護か虐待なのは、その親が社会的に未熟と言わざるを得ません。少なくtも20代に社会との交わり、
社交、サークルの重要性を説くべきでしょう。関わらなくていい人間関係もあるので、その辺の見極めを教えるべきなのです。
そうすれば親がいなくても生きていける力は身につきます。二元はどこまで行っても「群れ」「集団」でなければその力は
発揮できないのですから)

生活改善、自分の長所短所の客観評価、QOLの向上。
全て「障害福祉サービス」という社会福祉で改善、自立へ向かい始めています。

病気で進退窮まった人。「もう後がない人」は障害福祉サービスを受給することで人生を好転させる何かが見つかると思います。

何が何でも「健常者」で「人の力を借りないという生き方」は、原則的には立派ですが、現実的ではありません。

「自助論」を書いたS・スマイルズでさえ、「他人の協力、支援、激励は自助を達成するために必要」と喝破しています。

福祉は「甘え」ではなく、自助、互助、公助という人間社会の縮図なのです。

 

 

精神の障害者はそうした社会構造の理解に疎く人の力や助けをうまく導けなった人達なのです。

福祉業者ぬは嫌な人や悪い人も多い世の中ですが、人間は一人では生きていけません。

何らかの形で「支えあい」が必要になるのです。たとえそれが金銭目的の福祉ビジネスの一環だとしても、
使える制度は使うのが今の世の中でより良い人生を築く礎石になるのです。

私は人生半ばになってこうしたことに気づきました。

 

 

見栄を捨て障害を認め、公的支援をもらうだけもらう。「背水の陣」「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」という格言通り、
自らの弱さを素直に認め、然るべき対策を講じる「謙虚さ」がこれから肝要になると思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。
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ABOUTこの記事をかいた人

50代男性現在、自立支援医療、障害基礎年金2級 手帳2級の社会福祉制度を利用し自宅療養中 2000年ベンゾジアゼピン服用(レキソタン、ロヒプノールなど) 2015年(40代の前半)にベンゾ常用量依存と過労で倒れ自宅療養 当時服用していたベンゾジアゼピン系薬物の害毒を知り 2019年7月3日レキソタン断薬 現在断薬5年経過  筋肉もほぼ回復