移ろいゆく日々の中で
移ろいゆく日々を過ごす中で心から気の休まる日は数えるほどです。
それは季節によるものか心の安定によるものかよく分かりません。
ただ精神状態の安定が肉体の苦痛を緩和することは確かで、宗教に否定的な私でも、
病気にはある種の宗教心が必要だと感じています。
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しかし一般日本人の宗教は欧米や中東の大陸諸国における一神教の宗教ではなく、
あくまで自然崇拝、アニミズムに近い多神教的な信仰が日常であり、
その穏やかな心は私たち日本人の心の源泉となっています。
しかしまた、このような不和の中に調和をもたらす日本人の持つ宗教感覚、
自然への畏敬は、高度成長時代とともに忘れさられました。
最近福祉を受けるようになって特にそれを感じます。
つまり
あまりにも日本人の自然な心からかけ離れた単なる拝金主義と
そこから派生する大衆迎合主義(ポピュリズム)が世に浸透しており、
由々しき状態となっています。
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「弱り目に祟り目」
病気、障害など弱ったときに危険な団体が身近に迫ります。
障害福祉という国民、市民の最後の救いの場にもビジネスの論理が入り込み、
一般市民のケアが蔑ろにされがちです。
大衆迎合主義は、市民の持つ
穏やかな自然への畏敬を否定しそます。それはあたかも何かにつけて
小理屈屁理屈を並べ立て心を書き乱す雑念的存在です。
健常者さえ嫌がる人達が障害福祉の場で、
心の弱った障害者を相手に威張り散らすか、
とぼけたふりをして障害者の心を弄び自尊心を傷つける存在になっています。
「仲間以外認めない」
おそらく自分たちの所属する教団の一員でなければ、
つまり仲間でなければ障害福祉サービスを受けささない、という
横柄なな意志を彼らから感じとっています。
このような独善的な団体は、行政、福祉業界にあまねく浸透しています。
俗に言う福祉への偏見は、彼らのこうした悪行、貧困ビジネスから派生しているのです。
そもそも福祉は普通の生活を送っている日本人にとってあまり関係のない世界です。
ところが私のように薬害(ベンゾジアゼピン系向精神薬依存、離脱禁断症状、後遺症)に陥った者にとって
仕方なく関わらざるを得ない世界でした。老齢ではない障害福祉という想定外の状態です。
私のような通常のベンゾジアゼピン後遺症の一市民を独善的教団が支
配する行政や福祉関係者は想定していませんでした。
ですから自らのこれまでの、
弱者に付け込むやり方が通じず、私にことさら辛く当たるという彼らの論理で私に接して来るのです。
例えば相談支援専門員はすぐに受けられる福祉サービスをあえて遅延しました。実質的にネグレクトです。
無視しました。
こちらが要望を出しても、のらりくらりかわすか
言葉尻をとらえケンカに持ち込もうとするなどおおよ一般の市民社会の常識からかけ離れた言動を取りました。
健常者でもありえない言動を障害者相手にするのですから明らかにネガティブな大衆心理から来る熱狂そのものです。
これは行政の一部職員のおいても同じです。
おそらく仲間なのでしょう。
彼らは、日本人の心といった道義的、観念的な文脈からだけでなく、
障害者総合支援法、障害者虐待防止法など法律を無視します。
つまり違法を平気で行うのです。
こうした無法感覚を持っているのもカルト信者独特の気質です。
やはり日本の福祉行政はそういう方面の一部の独善主義者に乗っ取られている
のは都市伝説ではなく、
本当だと障害福祉サービスを受けて一年の経験からわかりました。
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なぜ私がこのようなことを書くかといえば、障害福祉行政に携わる彼らは、
利用者の心をあえてかき乱し、
すぐに伝わる話でも四の五の理屈、屁理屈をつけ仕事をしないからです。
障害福祉は弱者の最後のよりどころ。それにも関わらず、彼らの言動は一貫して非協力的、
ないし敵対的言動をとられ続けました。今は疲れ果てています。
待遇改善をはかるべく今年に入ってようやく、別の相談支援専門員に交代し、
本来の障害福祉サービスを受け
助かっています。しかし同時に初代の相談支援専門員の悪行が目立ちいまだに心の傷
になっています。
この件を行政に相談しても、全く取り合ってもらえません。むしろ虐待の味方をするような
屁理屈、小理屈を展開され現在書面と電話での応酬が続いています。
私が前半で障害福祉行政にカルト・セクトが関与していると指摘したのは、
まさにこの障害福祉の現場において虐待が横行するばかりか、
それを防止するはずの行政が虐待防止に無関心であるからです。
そもそも障害者は信用も抗弁能力も健常者よりハンデがあります。
なのでこちらがいくら虐待を通報しても
取りあってもらえない辛さがあります。
むしろ私の主観の問題とされます。酷い時はケアマネ(相談支援専門員)や
役人の顔色を伺うことを実質的に強要されます。
まるで江戸時代のお代官様のようにふるまわれ、彼らの時代錯誤のはなはだしさに憤っています。
そればかりか彼らのこのような前近代的役人感覚は、近代化を成し遂げていない中国か韓国、北朝鮮といった
人達の気質によく似ています。また無法と近代感覚の否定を教義としているカルト教団そのものの論理です。
信仰の自由を重視するフランス、ドイツ、ベルギー、オーストリアなど欧州各国では禁止されている
教団が日本で跋扈しています。
本来なら破壊活動防止法が適用されてしかるべき危険なカルト集団が福祉行政の趨勢を占めている現状に
一般日本人の障害者一人はただただ肉体的苦痛とともにさらなる精神的苦痛を強いられ、自尊心を
捨てさせられます。
もしかしたらそうして、障害者を教団に隷属させる目的があるのかもしれません。
いずれにせよ人の弱みに合法的に付け込めるカルト集団は、弱者を貧困ビジネスで食い物にしたあげく信者にして搾取を目論む
危険な団体です。フランス、ドイツでは禁止され日本でもオウム事件のあった95年に破壊活動防止法で取り締まりの対象に
なっていましたが、時の政権とマスコミのよって潰されました。
おそらく教団から金をもらったからでしょう。
このような歴史的経緯を経て、本来危険で禁止され破防法の対象でもある
独善的教団支持者が公務員や福祉業者として障害福祉行政に入り込んでいる現状は本当に冷酷だと感じています。
私がこのようなことを病気と障害の中で観察しながら彼らに対抗できるのは、
インターネットを覚えていたことと、
事前に福祉にはカルトが絡むことを
知っていたからです。
つまりある程度は予測していたのです。
独善主義者は大衆的熱狂の伴う集団として強いが、
個人としては弱く法律を知らない、文章の解釈もろくにできなません。
なので健常な方は相手にしなことでダメージが少なくなります。
ただ福祉を必要とする者にはそうはいきません。
心神耗弱状態の人に付け込み抑圧し威張り散らしたいという彼らの身勝手な願望の対象にされ、
泣かされるのです。そもそも彼らは極めて思慮の浅い人たちです。
しかし裏を返せばその程度の人達に、弱みに付け込まれ自宅で尊厳を傷つける侮辱を受けるのです。
こういうことが常識であってはなりません。
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私は排他目的でこの記事をかいたのではありません。排他的な独善集団による排他的、独善的言動を批判を
即ち弱者が蹂躙されている現状を述べたまでです。
日本に信仰の自由はあります。日本国憲法20条で保障されています。
第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、
国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
この条文は政教分離の原則を謳ったものですが、「公共の福祉に反しない限り」
という前提条件があると常識的に解釈されます。
海外では禁止され、日本でも1995年に破防法の適用が検討された独善的教団が福祉行政分野にいる。
「何かの冗談か?」と思うほど本末転倒な事態に日本は突入しています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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